ひところ盛んに言われた「専門バカ」という言葉を、最近は聞かない。専門家に対する尊敬の念が高まったからか、専門バカが大多数になったからなのかはよくわからない。専門家でもないのに「専門バカ」然りの横行は目に余るようで、それを突いたのが、爆発的にヒットをした養老猛氏の『バカの壁』であろう。本物の「専門バカ」がいなくなってしまったということが、じつは、たとえ突出した専門を持っていてもそのこと自体が社会的にどういう意味を持つのかを客観的に眺めてこき下ろす常識人があまりいなくなってしまったということだとしたら、それはやはり危ない状況である。
社会は常に進化する。しかし、「科学の普遍性は変化しない」と、我々は思い込んでいる。だから、それぞれの「科学」で「ある鮮明なターゲットを持つ」ことに意味が生じ、その「個性の重視」が科学のテーマになり、専門家の存在意義が生じる。もちろん、そのこと自体には十分意味がある。しかし一方で、社会、そして、人間の意識は、個性ではなく共通了解を求めても進歩してきた。個々の規範が支配する科学ではこの矛盾を見ていない。この矛盾を置き去りにして個性を重視する科学者を「専門バカ」と呼んだのだろう。
科学がこの矛盾を抱えたままでは、社会、人間の複雑な問題に正面から向き合った包括的な科学とはなりえないのではないだろうか。それに対して、「横断型基幹科学」は、その基本となる「個々の科学技術の枠を超えた一般化」という規範のなかに社会の進化への対応が織り込み済みであり、それによって社会や人間の問題に包括的に向き合う科学となりうるということを、我々は主張してきた。この主張に対する理解の輪は急速に広まりつつある。ただし、この主張は本当だろうか?という検証は十分ではない。横断型基幹科学が「専門バカの壁」を乗り越えるものなのかを明らかにする正念場を、まさに迎えている。 |