名誉会長(初代会長) 吉川弘之 (科学技術振興機構 特別顧問)
基礎研究: 学会間の協力で 新しい流れ
基礎研究は役に立たないという人がいるが、それは間違いである。いま、私たちが日々使っている知識の多くは、基礎研究と呼ばれる知識生産によって生み出された、 〈基礎的な〉知識の上に成り立っている。人間の心の動きや思考の背後には人文科学があり、社会的行動に対しては社会科学がある、これらの科学が直接役立つようには見えなくても、 個々の動きや行動の位置づけに対してある見通しを与えるものとして、それらは重く存在しているのであり、動きや行動はそれらの上でかろうじて整合性を保ちながら成り立っている のが現代の特徴だといってもよいのではないか。自然科学ではこのことがもっと明白に現れている。多くの現代技術は自然科学的な知識を基礎にしているし、産業が競争力強化のため に科学技術を行うことはもはや一般的なことである。いわば、私たちの知的活動のほとんどは基礎研究によって生み出された体系的知識としての人文科学、社会科学、そして自然科学 の上に成立しているのである。
その意味で科学は私たちにとって恩恵であるが、少なからず脅威をももたらしている。科学の急速な進歩による知識格差の拡大と、知識利用の増加に伴う人間行動の広範化による 地球環境破壊は、その典型である。ここでこれらの脅威が科学そのもののせいだとするのは単純すぎる。そうではなく、科学的知識の全体が十分に調和しておらず体系が不十分だと考 えたほうがいい。したがってこれらの相互に矛盾しながら調和を乱す問題を解決するためには、さらに進んで知識を用いることが必要なのであるが、そのときその背後に、より調和の 取れた、そしてより体系的な基礎的知識が必要なのであり、それを生み出すことがこれからの望ましい基礎研究なのである。そしてこの期待は以下に述べる新しい研究によって現実的に表現される。
基礎研究は役に立たないという言い方およびそれに基づく一般の誤解を覆そうとする一軍の研究者が存在する。この研究者たちの研究は、狭義の基礎研究を超えて、人間の行為に 対し基礎を提供する字義通りの基礎研究へと概念の拡大を目標にしているのである。
最近発足した横断型基幹科学技術研究団体連合は、このような研究者の集まりの代表的なものといえるであろう。この連合は比較的小規模の学会の集まりであるが、それぞれ は固有の現実的な課題を持っている。そしてその課題の解決のために必要な知識体系を展開しようとしているのである。しかしそのとき、それぞれが背景としてもつ特定の〈基礎的な〉 学問領域に属する知識では不十分であることを主張する。その結果、各学会は伝統的にその学会の基礎であると考えられている領域を超えて他の基礎的領域の知識を用いたり、他の小 規模な学会で扱っている現実的課題の成果を援用したりする。そしてもちろん、学会間の共同研究へと発展するのである。
一見このような連合は、ひたすら現実的問題の解決を、既存の知識を応用し て求めているかのように見える。それはもちろん一つの目標である。しかしこれは、領域化した基礎科学の限界を人間行動と知識との関係という視点を通じて超えようとする学問上の 運動という面を強く持っている。現代の学問が細分化した結果、一つ一つの領域が現実問題に対して無力になってしまったことはすでに指摘されて久しい。たとえば日本学術会議はその 問題を、領域を超えた俯瞰的視点を行動によって解くことを試みたのであった。この連合の場合、俯瞰的視点が行動によって現実化するものであり、正しい設定である。学会間の協力や 産学協同などの行動が、基礎研究に新しい流れを作り出すことが期待される。