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横幹連合ニュースレター

<<目次>> No.018, July 2009

巻頭メッセージ

活動紹介

参加学会の横顔

 
人あるところに横幹あり
 
*
 
広報・出版委員会委員長
西村千秋
 
◆【参加レポート】
 
第19回横幹技術フォーラム
 
【横幹連合に参加している
 学会をご紹介するコーナー】
 
システム制御情報学会

イベント紹介

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巻頭メッセージ

人あるところに横幹あり

  西村千秋 広報・出版委員会委員長

  東邦大学

  人類の歴史を見ると、あまりにも人々の心が圧迫感を受けたとき、そこから脱出しようとする動きが顕在化し、やがては大きなうねりとなって大変革を生み出してきた事例に事欠かない。たとえば、中世ヨーロッパで宗教による束縛感が最高潮に達した頃、精神の解放を求めて宗教改革やルネサンスが勃興し、やがては実証的自然観から科学へと発展してきた。また、日本では朝廷・公家による権威を否定する形で武士が勃興してきたが、これも精神的呪縛を解き放っていく過程が、ひとつの流れを形成したともいえよう。このように、人は、あたかも絶対と思われていた権威が猛威をふるって、その内面をがんじがらめにしそうになったときに、「何かおかしい」という感覚を持ち、それからの脱却を模索して自由になろうとするもののようである。

 さて、現代において私たちのこころのありようを規定しているのは、何であろうか。宗教観、倫理観、文化的社会的環境など、さまざまなものが考えられるが、陰に陽に考え方を大きく規定しているのは科学であろう。その方法論はみんなが頷けるものであり、それが導き出した結果はみんなが認めるところである。しかも、科学の考え方には、ひとつでも例外が見つかれば、それまでどれほど確乎として存在していた法則も直ちに捨て去る、という厳しい基準が設けられており、大変謙虚な姿勢も持ち合わせている。さらに、科学の成果に立脚した産業や技術は、私たちが持ち合わせている物質的な欲求を飛躍的に叶えてくれたことにより、生活のすみずみにまで計り知れない影響を与えてきた。

 したがって、科学的方法により導かれた結果は絶対であり、思考はそのような方法に沿ってなされることこそが合理的であり、信頼もできるのだという価値観が遍く行き渡っているように思える。そのため、私たちの生活は科学技術や科学的思考を抜きにしては成り立たなくなっており、それからずれたり、ずれないまでも突き詰めを怠って不十分なままに留まっていたりすると、内心穏やかではなくなるのである。

 しかし、これこそ、すでに科学そのものに私たちの心が束縛されて、逃れようのない強迫観念が生じている証左ではないであろうか。もちろん科学の生み出してきたこれまでの成果は輝かしいものであり、十分に評価したいのだが、だからといってこのまま、その行き着く先に双手を挙げて身を委ねてしまうことに私は躊躇するのである。というのは、ここに到って科学が扱いきれない問題が多数噴出してきたからである。人を含む生き物の生命を取り扱うという問題や、環境・生態系のダイナミクスの問題、こころとからだのつながりの問題など、枚挙に暇がない。具体的には、最近話題になっている脳死の扱い、異常気象対策の問題など、身近でしかも対応が急がれている話題も多い。

 これらに対しては、「いずれも大規模複雑系で扱いが難しいが、従来の科学の手法を、周到に準備して注意深く適用していけば、やがては要素に還元された形で十分な理解に到達できる」という考えの人も多い。しかし、それが可能かどうかは定かでないし、それを待っていたら、その前に関係者が死んでしまう、あるいは人類が滅びてしまう可能性も十分ある。また、「それならば、当面は安全側に倒して規制をかけておき、あくまで科学的な方法による結論を待てばよい」という現実論もあるだろうが、何を以て安全とするかについて、やはり科学が解き明かすということになれば、結局同じ問題が残る。

 科学を信奉し切ってしまえば、上記のような楽観的とも言える考えで押し通すことになるのであろうが、ここでは科学というものをもっと相対化して、それを包括する新しいパラダイムを考える方がよほど現実的であるし、有効であろう。上に掲げた、科学の俎上に乗りにくい問題は、いずれも、どのように切り分けても必ず科学の範疇からはみ出す部分をもっているのではないだろうか。すなわち、客観的・一律的な扱いが本質的にできず、ひとりひとりの価値観を入れることでしか結論に到達できない要素が内包されているように考えられる。

 そのような立場に立てば、問題には一義的な解があってそれを求めていくという性質のものではなく、全体の関係性の中で係わる人々が十分妥当と見なせる方法論を、これまでの科学の巨大な成果も参考にしつつ、いかに見つけ出すかということの方が大切となる。

 そのヒントが隠されていそうな分野として、私が関係している医療分野を例として紹介したい。医療とは、病気やけがで健康を損ねた人に医学的な介入をして、その健康状態を取り戻す過程であり、本質的にはコトつくりである。また、対象となるのはひとりの患者である。しかし、それを扱うには当該診療科医師だけでは業務が成立せず、病院では医療関連職として、看護、検査、手術、輸血、薬剤、栄養、事務などさまざまな職種の職員が連携して、ことにあたっている。ただしそれだけでは十分でなく、身体を治すだけでは医療が完結しないことがかなり以前から叫ばれている。すなわち、病気やけがは治っても、それだけでは生活者としての患者にはまだまだ不十分であることが多い。心のケアや、家庭復帰、社会復帰、再発や予後不良に備えての安心環境つくりなどが整って、はじめて患者は満足して医療から離れることができるのである。このような医療は、全人的医療と呼ばれている。要するに病気やけがを診るのではなく、病める人を診るのである。

 このように、人を対象とすると、かならずそこには個々の処置だけでなく、それらを横断的に見て総合してゆく視点が必要になり、しかもその総合方法は、患者一人一人によって違うのである。多くの医療施設が全人的医療に取り組んでおり、さまざまな方法論が模索を通じて得られてきている。そこには、諸分野を横断的に統合し、俯瞰的な視点から社会的な価値を生み出す、人工物システムを構成するための知(コトつくり)を見出そうとする横幹技術へのヒントが一杯詰まっていると言える。たとえば、電子カルテはそのひとつである。電子カルテは従来の紙カルテを単に電子媒体に置き換えただけのものではない。大きなデータベースとしての威力を発揮すると同時に、各職種間を連携する有効な道具ともなり、また患者ごとに個々の対応もできうる。これからの電子カルテには、このような大きな期待が寄せられている。

 以上に述べた構造や方法論は、何も医療に限らず、人が中心となる活動には必ず付随する普遍的な要素を含んでいる。したがって、私はこれからの横断型科学技術の発展に大きな期待を寄せている。
「人あるところに横幹あり」と。

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