1. はじめに
21世紀に入って、わが国政府は「知財立国」を産業再生戦略の中核に据え、知的財産権の保護強化策を推進している。産業衰退の危機にあった米国が、1985年に発表された「ヤンEリポート」をバイブルとして知的財産権保護サを行い、これによって産業再生を果たしたのを手本にしようというわけ?る。
米国の戦略は一貫して、特許による発明の保護強化、すなわちプロ・パテント政策である。これにならってわが国でも、特許制度を強化する方向で様々な政策が実施されている。
(i) 特許審査の迅速化、(ii) 特許侵害に対する罰則の強化(3倍賠償制度の導入)、(iii) 大学の研究者に対する特許取得の奨励、(iv) 大学から民間への技術移転促進、(v) 研究論文と並んで特許取得を研究者の業績評価の対象とする措置、などなどである。また政府は技術紛争を適切に処置するため、2005年に「知財高等裁判所」を設立することを決定した。
このようにわが国では、これまで権利保護が十分でなかったことの反省の上に、知財保護強化一直線の政策が進められている。しかし専門家の間には、このような政策が産業振興にどれだけ効果をもつかを疑問視する向きもある。また一般には知られていないことであるが、かねて心配されていたとおり、米国ではプロ・パテント政策の行きすぎによる深刻なトラブルが多発している。知的財産権の保護サにあたっては、細心な舵取りが必要とされる所以?る。
知的財産権問題は、知的財産の生産者である技メの活動にきわめて大きな影響を及ぼすものである。しかし技術者の多くは、これまでこの問題に無関心だった。法律の問題は法律家に任せておけば適正に対処してもらえる、と考えていたためであろう。また、技術者にはこの種の問題について発言する場が用意されていなかったことも、その大きな理由の1つである。
しかし時代は変わった。知財問題を技術的素養に乏しい法律家の判断に任せていたために、様々な問題が生じている。このような状況を改善するために、技術者が知財問題を自らの問題として考えなければならない時代がやってきたのである。事実米国やヨーロッパでは、技術者たちが発言し行動しはじめている。
このような流れの中で、横幹連合においても「知財問題委員会」が設置され、昨年秋以来様々な活動を行ってきた。そこで以下では、4月14日に開催された総会での講演「技術者と知財問題」の概要を報告することにしよう。
2. 知財高等裁判所と技術者の役割
1982年に米国が連邦巡回控訴裁判所(CAjを設立して以来、世界各国で次々と
知財裁判所が設置され「る。アジア諸国でも、97年にはタイが「知財・国際貿易裁判所」を、98年には韓国が「特許法院」を、そして2002年にはシンガポールが「知財裁判所」を設置している。
このような動きをうけて、わが国でもこのような法制度を作るべきだという声が産業界を中心に高まったが、司法界はなかなか改革にのり出そうとはしなかった。東京高裁と大阪高裁の知財部が事実上CAFCと同様な役割を果たしているので、新たな裁判所を作る必要はないというのがその理由であった。
しかし、小泉内閣が成立して以来、状況は大きく変わった。わが国の産業再生のためには知的財産権の保護強化が鍵を握っているとの判断の下に、「知的財産国家戦略会議」を設立して司法制度改革に乗り出したのである。
これに対して司法界(最高裁、法務省、法学者)は組織的な反対運動を繰り広げた。このため、議論は二転三転したが、政府はこれらの反対を押し切って、2005年に「知財高等裁判所」を設立することを決定した。
この3月に衆議院を通過した政府案は
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(a) |
東京高裁の管轄に属する事件のうち、知的財産に関する事件を取り扱う特別の支部として知財高裁を設ける。 |
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(b) |
知財高裁判事および知財高裁所長は最高裁が任命する。 |
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(c) |
知財高裁の司法行政事務は、そこに勤務する裁判官会議の儀によるものとし、知財高裁所長がこれを総括する。 |
というものである。
立法府も産学界も、またジャーナリズムも黷?画期的な改革と評価し、知財立国に向けての準備が整ったものと受け止めている。しかZ術者の立場から見ると、これは中途半端な改革だといわざるを得ない。
知財高裁論争で大きな争点となったのは、「独立した知財高裁」の設立と、「技術判事制度」の導入であった。今回設立される知財高裁は、上記のとおり半独立ではあるが、実質的には独立しているからこれによいと評価するする人は多い。しかももう一方の技術判事制度は、司法界の強力な反対によって葬りさられた。これでは「仏を作って魂をいれず」としかいいようがない。
米国のCAFCが成功した理由の1つとして、12人の判事の約半数が技術的バックグランドのある人の中から選任されているためであるとする説が有力である。裁判の当事者たちにとっては、判事が当事者の主張を理解する能力を持っているか否かがきわめて重要なのである。技術の分かる人による技術裁判こそが、ことの本質である。技術の分からないH2O判事(H2Oは水であるという程度の知識で十分だとする判事)が、技術者や産業界の期待を裏切る判決をだしてきた例は枚挙に遑がない。
その証拠に、知的財産国家戦略cの求めに応じて提出された98件のパブリックコメントの90%以上が、技術判事制度の導入を求め「るのである。われわれ横幹連合の「知財問題委員会」も、技術判事の導入が成功の鍵ャっていると主張したが、これらの要望は受け入れられなかった。もう少し早く運動を始めていれば、状況は変わっていたかもしれない。
技術判事制度を拒否した司法界は、それにかわるべき措置として、2004年4月に大学の研究者ら140人を、専門的助言を行うための「専門員」に任命した。彼らは訴訟の審理に参加し、原告・被告の技術的な主張の中身について検証を行うことになっている。
専門員はいわば裁判官のための「家庭教師」のようなものである。しかし相手がH2O判事では、専門家が果たす役割は限られている。このような空しいリスキーな仕事を、一流の専門家にパートタイム(薄謝)で担当させるというのは、法曹界が技術者を「お人好しの働き蟻」と見ている証拠である。
技術者と産業界は技術の分る判事を求めている。そして理工系大学の多くがこの要求に応えるべく、知的財産権に関わる専門コースを設立して人材育成に乗り出している。しかし、技術@律の両方について完璧な知識をもつ人材を育成するのは容易なことではない。
法ニたちは、知財判事も通常の判事同様六法のすべてに関する知識をもつべきだと主張するオかし技術紛争の判定に、憲法や刑事訴訟法などに関わる詳細な知識が必要だろうか。国民は、法律100技術0の判事より、法律50技術80の判事を望んでいるのである。
また法律家たちは、最新技術は陳腐化が早いから技術判事を採用してもすぐ時代遅れになるという理由で、技術判事制度を完全に否定している。しかし技術者に言わせれば、これは的外れな言葉である。技術者たちは陳腐化する知識を日々更新して、国際競争に伍しているからである。
裁判官は一度法律を頭の中に入れてしまえば、何十年にもわたってその知識を使い続けることができる。蓄積された膨大な判例をひもとけば、ほとんどあらゆる紛争は過去に類似の例がある。上記のような発言が出るのはこのためである。
一方、日々新しいものが出現するのが、人と自然の間の営みである技術の世界である。過去に例のない技術の新規性や進歩性を判断する仕事は、主として過去のケースをもとに正?判断する法律家の得意とするところではないのである。
それを知りながら裁判官たちがフ権限を手放そうとしないのは、これが蟻の一穴となって、自らの独占的権益が失われるこ?恐れているためだという。法曹界が、技術立国時代においても、明治以来の法律家上位制度を維持しようとするならば、国家の将来を誤らせることになるであろう。
3. “何でも特許”の時代:ソフトウェア特許とビジネス方法特許
80年代以降、米国は特許保護の範囲を、伝統的技術からソフトウェア、遺伝子、医療方法、ビジネス方法へと拡大した。これらの制度の導入にあたって様々な反対があったが、その多くは社会に定着しはじめている。そしてこの成功を背景に、一部の法律家たちはこれから先より広い範囲に特許権を拡大しようと機をうかがっている。
一般の人々は、これを思い過しだといって笑うかもしれない。しかし80年代からこの問題に関わって来たエンジニアから見ると、これは決して杞憂ではないのである。このような制度の導入を図っている法律関係者は、極めて周到な計画のもとに、着々と“ナも特許”に向けて歩を進めているのである。そしてそれを象徴するのが、2002年11月に成立した驚愕すべきビジネ?法特許である。
米国特許商標庁は5年に及ぶ審査の後、2002年11月にネgベンチャー企業「DEテクノロジーズ社」の、“国際貿易取引を実行するためのコンピューターを利用した手続きとシステム”と称するビジネス方法特許を認可した。
この特許は、貿易業務において必要となる19種の手続き(カタログの翻訳、各種コスト算出など)を“ネット上で行う”方法に関するもので、その新規性は従来の業務を“ネット上で行うこと”だけであるとして、各方面から厳しく批判されたものである。
この特許が注目されたのは、新規性の希薄さもさることながら、DEテクノロジーズ社が、特許成立前から IBM社をはじめとする世界の有力企業に、ネット貿易取引額の0.3%を特許使用料として要求する構えを見せたことである。初年度で900億円、20年間で1兆円を上廻る収入を狙っているという。
1999年に特許成立間近と伝えられたにも拘らず、ゴーサインが出るまでに更に3年ともの時間が経過した理由は、2000年に開かれたト欧3極協議の過程で、日欧が協力して米国の特許行政に抗議し、既存のビジネスをネット上で実施するだけで、技術的な新ォや進歩性をもたない特許は認めないという譲歩を引出したためである。
20N当時、わが国ではビジネス・モデル特許フィーバーが渦巻いていた。米国でハブ・アンド・スポーク特許、ワンクリック・オーダー特許など、技術的新規性をみたさない特許が次々と成立したのは、1998年から 2000年にかけてのことである。このためわが国の企業も、思いつくビジネスアイディアをすべて特許申請したといわれたくらいである。
ところが3極合意以降、このフィーバーは沈静化した。また日本特許庁が、ビジネス・モデル特許をソフトウェア特許の一種として、つまり技術的新規性を慎重に吟味した上で謙抑的に審査するという方針を示して以来、米国流のビジネス方法特許に対する恐怖は過去のものとなったとされている。しかし筆者は、これまでの米国の特許戦略からみて、これで安心するのは早計だと考えていた。
ここにやってきたのが、「DEテクノロジーズ特許」である。この特許は、明らかに3極合意に違反した技術的要件を欠いたフである。したがって、今後CAFCが無効を宣言する可能性がないわけではない。しかしそれにも拘らず、このような特許が成立しアとは、再び米国の特許行政に対する強い不信感を招く結果となっている。
筆者は10年近くにわたって、AT&Tベル研究所(後にルーセント・テクノロジーズ社)の線形計画法特許を巡って特許庁と争ってきた。反対の理由は、新規性のなさと、この特許が“発明”の条件をみたしていないという点であった。その詳細は、文末に記した著書[1]に詳しく書いたのでそれを参照して頂くことして、根源的設問は、ソフトウェアやビジネス方法のような抽象的アイディアを特許で保護することは、社会の便益の増大につながるのかという点であった。
筆者はこれまで様々な機会を捉えて、ソフトウェア特許や、その延長線上に位置するビジネス・モデル(方法)特許について、専門家の意見を聴取してきたが、結論的に言えば、多くの技術者はこの種の特許に反対しているのである。さらに重要なことは、ソフトウェア特許はソフトウェア産業の発展に寄与するどころか、逆にその弊害となっているという事実である。 [1, 5]
ソフトウェアは、本来であれば著作権で保護されるべきものである。(これについては多くの人が同意している)確かに、中にチ許で保護するに値するような新規性、有用性をそなえた発明で、しかもその開発にかなりの資金を要するのもあるだろう。しかしそれとても20年にもわたって特許で保護する必要性は少ない。ソフトウェアは陳腐化が激しい商品であることを考えれば、仮に保護するにしても保護期間は5年から7年程度で十分ではないだろうか。しかし法律家は、決してこのような主張に耳を貸そうとはしないのである。
これまでわが国では、筆者のようにソフトウェア特許を批判する人はきわめて少数だった。しかしLINUXの成功とオープン・ソフトの普及によって、状況は微妙に変化している。実際、中小のソフトウェア会社の間では、米国のSCO事件をきっかけに、ソフトウェア特許とそれに関わる訴訟に対する懸念が高まっている。またネット上には、米国のソフトウェア特許/ビジネス方法特許に関わる政策を批判する文章が溢れている。
あるいは米国のプロ・パテント政策は、いまその最終段階を迎えているのかもしれない。わが国が知財保護強化政策を進めるナ、このような流れを見逃すと取返すえしのつかないことになる危険性が高い。なぜなら、米国は政策の転換が必要であると認識すれば黷?変更できる国であるのに対して、わが国は一旦決めた法律は容易に変えることのできない国だからである/p>
4. 何でも特許から“どこでも特許”へ
2002年に米国で、大学人の根幹を揺がす判決が下された。世に言う「デューク大学事件判決」である。
従来米国では、わが国と同様、学術目的での実験や機械の製作を特許権の対象外とする「試験研究の例外」のルールが機能してきた。しかし、デューク大学事件判決はこの慣例を否定して、
「試験研究の例外に相当するものは、単なる気晴らしか、閑暇にまかせて好奇心を満足させるためか、あるいは純粋に哲学的な探求のみを目的としているのではない場合にはそれを認めることはできない。特定の機関や施設が商業的な利益の増進にかかわっているかどうかは、この際問題ではない。また実施する者が営利目的の存在が非営利目的団体かということも、それを決定する要因ではない。」
と述べている。
すなわち、これから先は大学等の試験研究機関に所属する人々の技術的研究のほとんどすべてが、特許権行使の対象ネるというのである。玉井克哉教授(東大)[4]によれば、米国における試験研究の例外の範囲は、N代以降徐々に狭められてきたという。考えてみれば、米国の大学は古くから中立な研究機関から脱皮し、産学協同で様々なビジネスを行ってきた。また大学教授が自ら特許を取り、それをもとに企業を経営し収益をあげるのは当り前のことになっている。
したがって、大学等で行われている研究のすべてを試験研究の例外として扱うべきだという主張は説得力を欠くだろう。しかしそれにも拘わらず、ほとんどの大学人は上記の判決が行きすぎであると感じるに違いない。
特許を取り、これでビジネスを興し利益を得ようという人は、試験研究の例外を主張することはできないかもしれない。しかし筆者が知る限り、こういう人はアメリカの大学でも少数派である。ソフトウェアやビジネス方法に関わるほとんどの研究者は、依然としてアカデミックな世界で活動し、研究成果を論文の形で公開しているのである。
技術の発展のためには、試験研究の例外条項はきわめて重要である。たとえば、AT&Tベル研究所のカーマーカー特許は、線形計画法におけ燗_法をすべて独占しようという試みであったが、もし80年代末に上記のような判例が確定していれば、大学人の研Q入が阻害され、その後の驚異的ブレークスルーは起らなかっただろう。これらの技術が、人類の存続にとってきわめて大きな役割を果たすものであることを考えると、デューク大学事件の判決がもつ意味の大きさに慄然とさせられるのである。
国立大学が独立法人化される中で、大学人には多数の特許を取得し、技術革新の中心を担うことが期待されている。ここに米国から、ハーモニーゼーションの名の下に、試験研究の例外についても米国と同じ規準を導入せよと要求されたとすれば、それを迎え討つためにいまから十分に説得力のある論理を用意しておくことが必要であろう。
大学人にとってもう1つの悩ましい問題は、研究者の業績評価に特許をどのような形でとり入れるかという問題である。
研究者の業績は、従来研究論文の質と量によって測られてきた。論文の評価は、同分野の蜑ニによるピア・レビューが基本である。各論文は一定のスタンダードで審査され、内容に疑わしさの残るものは掲載を拒絶される。審査員によって間違いが「と判断されたものだけが、掲載されるのである。
多くの学問分野では、審査制度のあるジャiルに掲載された論文は、それぞれ1編の論文としてカウントされる。場合によっては、この数が一人歩きすることもある。これを防ぐために考案されたのが、サイテーション・インデックス(引用回数の指標)やインパクト・ファクター(掲載されたジャーナルの質の指標)である。これは個々の論文が、それぞれの研究領域に及ぼす影響を計量化したものである。グレードの高いジャーナルに掲載され、多くの人に引用される論文を書くことは、研究者の名誉である。
このように、論文を通しての研究者の評価については、一定の権威をもつ指標が存在する。では特許はどうだろうか。
特許とは本来、産業上有用かつ新規な技術の開発に対するインセンティブを与えるため、それに必要な投資を回収することを可能とする目的で作られた制度である。つまりここでの尺度は、第一義的には金銭である。
また審査についても、論文の場合と比べて本質的な違いがある。すなわち、新規性、進歩性に疑問のあるものにはとりあえず特許を与え、これに_があるものは異議申立てや無効審判、さらには裁判に訴えて無効化するというのが現行の特許制度である。米国においてAこの訴訟には平均して1億円単位の費用がかかる。わが国でもざっと1000万円近いお金が必要である。
この制度の下では、お金をかけてまでつぶす必要のない“つまらない”特許は、そのまま残ることになる。実際世の中には、新規性、進歩性についてはっきりしない上に、お金にもならない特許が沢山存在しているのである。
気のきいた研究者であれば、1編の論文に盛り込むアイディアを適当に分割して修飾を施せば、3つや4つの特許を取得するのはさほど難しいことではない。現状では、論文審査より特許審査をくぐり抜ける方が遥かに容易だからである。
特許制度と論文制度が、名誉と金銭という本質的に異なる思想の下に組み立てられていることからみて、少なくとも日本においては、これらを合成した説得力のある指標をつくることは極めて難しいのである。
5. 技術者の発言
技術者を取巻く環境が大きく変化する中、技術者集団が動きはじめているサの第一はIEEEの活動である。10年近くにわたって争われたフェスト事件裁判において、この団体が提出した政策提言が、20Nの最高裁判決に決定的な影響を与えたのである。
この事件は、フェスト社と日本焼結金属社の間で争われた特許紛争で、特許侵害の有無をめぐって判定が三転四転した難事件である。ここで問題になったのは、いかなる場合に特許侵害があったとみなすべきか、つまり2つの技術はどのようなときに同一とみなすべきかという難問である。
この件に関して、米国においては従来2つの考え方が対立してきた。一方の「コンプリート・バー」は、特許クレームに書かれたものと全く同じものが使用されている場合に限り、特許侵害があったとみる方式である。もう一方の「フレクシブル・バー」は、文言通りではなくても、事実上それと同じ技術は同じとみなすスキームである。
では“事実上同じ”の限界をどこに設定すべきか。2002年のフェスト事件判決は、この問題に対キる新たなスキームとして、IEEEが最高裁の求めに応じて提出したアミカス・ブリーフに記された「フォーシーアブル・バー」を採用したのである。その内容については[2]ヌを参照して頂くとして、重要なことはエンジニア集団の提案が、この難しい法律問題の解決に大きな手がかりを与えたという点?る。
第二は、昨年以来EUの特許政策をめぐって、ヨーロッパ諸国のエンジニアが起こした反対運動である。EU議会では、かねてより米国の後押しを受けた英国主導の下に、ソフトウェア特許やビジネス方法特許の成立を容易にするための法案が検討されてきた。これが通れば、ヨーロッパ諸国でも米国流の何でも特許の時代がやってくるはずだった。
これに反対したのが、リナックス・グループのエンジニアたち組織「Federation of Free Information Infrastructure、略称FFII」である。2002年春には、僅か数万人に過ぎなかったこの組織は、2003年7月には20万人を越えた。そして彼らの抗議によって、法案の採決は一時延期された。その後もこの支持者はふえ続け、10月には30万人に達したという。彼らはブラッセルで大がかりな反対集会を開き、EU議会のメンバーたちにオて米国の圧力に屈しないよう説得を行った。この結果EU議会はこの法案を否決している。
この運動は、ヨーロッパでは連日詳しく報道されたというが、日フ新聞では全く取上げられなかった。ソフトウェア特許推進者は、これをヨーロッパが遅れていることの象徴だというだろう。しかし曹ノおいても、ローレンス・レッシッグをはじめこの運動を支持する人は多いのである。それは米国においては、特許ポートフォリオで武装した大企業と違って、中小ソフトウェア会社は活動に支障を来たしているからである。
第三は、わが国におけるエンジニアの動きである。まず2002年には「日本知財学会」が成立し、技術者たちが知財問題に関する意見を述べることが出来る場が設定された。 2003年に開催された第1回研究発表会に1,500人もの人々が参集したことは、この問題に対する技術者やジャーナリズムの関心の高さを物語っている。
また2003年には、30の学会を横断的につなぐ、「横断型基幹科学技術研究団体連合」の中に「知財問題委員会」が設置され、各学会を代表するメンバーを集めて知財問題に対する検討が進められている。人材プールの規模からト、単独の学会ではこの種の委員会を組織することは難しい。総数60,000人の会員を抱える連合体にしてはじめてできる活動である。
技術者がこのような活動Nこすのは、数年前には考えられないことだった。実際、米国流の過度の知的財産権保護戦略に対して、激烈かつ筋道立った批判を加えて驛香[レンス・レッシッグ(スタンフォード大学教授)は、2001年に著した書物「コモンズ」の中でマキアベリの言葉を引用しながら、“それでも技術者たちは立ち上がらないだろう”と述べている。
彼らは全般に不信感が強く、自らの経験を通じて確認したもの以外は信用しようとしないからだという。しかしこの予言は一年もしないうちに外れた。技術者たちは(私がそうであったように)、自らの経験を通じて問題の所在を十分に認識したのである。インターネットという武器を手に、自らの主張をはじめた技術者たちの発言と行動が、法律家主導の社会を作りかえてゆく力となることを期待したいものである。
<参考文献>
[2] 高岡亮一:『特許のルールがかわるとき』、日経BP社、2002年
[3] 高林 龍:『標準・特許法』、繩t、2002年
[4] 玉井克哉:「21世紀の学術研究と知的財産権」、『学術月報』、56(2003)、9-17
[5] ロ激塔X・レッシッグ(山形浩生 訳):『コモンズ』、翔友社、2002年 |